作曲家「佐村河内 守」

1963年、被爆二世として広島に生まれる。
幼少よりピアノ、ヴァイオリン、尺八、マリンバなどの英才教育を受けて育ち、十歳の頃より作曲家を志すも、破綻的なまでの完璧主義とロマン派的クラシック音楽志向から、音楽大学には進まず、完全独学による作曲家の道を貫く。
高校時代より凄まじい偏頭痛を患うようになり、生活に支障をきたしながらも東京へと居を移して研鑽を重ねる。
ある経緯から一時ロック歌手としてデビューすることが決まるが、直前に弟・亨が交通事故に巻き込まれて死去。
その悲報を聞き『頭に、身も心も引き裂くような不協和音が響いた』という衝撃を契機に偏頭痛の発作が悪化し、遂には聴力にまで影響を及ぼし始める。
その頃より、不協和音を使った現代音楽的要素が作品に入る。耳の不自由な作曲家という話題性が作品の評価に影響することを嫌い、補聴器の使用を隠すため長髪にするなど、しばらくは聴力の低下を隠した困難な生活が続く中、映画「秋桜」、ゲーム「バイオハザード」等の音楽を手掛ける。しかしながら聴覚障害は悪化の一途を辿り、1988年、35歳の時、ゲーム「鬼武者」の音楽を執筆中、完全に聴力を失い全聾となった。
音楽家にとって致命的な障害を負うのみならず以降、慢性的な極度の耳鳴症に悩まされることになるも、絶対音感による記譜のみで作曲を続けることを決意。1999年に交響組曲『ライジング・サン』を完成する。邦楽器を取り入れた奏者200人の大編成オーケストラ曲は国内外に高く評価され、米TIME誌に『現代のベートーヴェン』の見出しと共に紹介される等、その存在が一躍注目を集める。その頃より、障害児施設に通い子供達との交流を持つようになった。しかし、その時期から更に激化した頭鳴症が心身を蝕み、血反吐と尿にまみれた生活を送るようになる。2003年、20年近くを費やした「交響曲第一番」を完成、2005年には「交響曲第二番」を完筆するが、その間、発作に起因する抑うつ神経症などが精神の破壊を招くようになり、二度に渡って自殺未遂を図るなど一時は廃人と形容すべき状態だった。
その後、精神障害の緩和治療を受けながら、発作を誘発する日光を避けて暗い部屋での隠遁者的な創作活動に邁進する。
2008年9月1日、完成後5年以上日の目を見なかった大曲[交響曲 第1番]が広島でのG8議長サミット記念コンサートにて遂に初演される。その模様が『筑紫哲也のNEWS23』において取り上げられたことを機に佐村河内の存在と楽曲は再度、衆目を集めることになった。
2008年11月、広島市民賞を受賞。著書に自伝[交響曲第一番](講談社)があり、作家の五木寛之氏が「もし、現代に天才と呼べる芸術家がいるとすれば、その一人は、まちがいなく佐村河内守さんだろう。命をすりへらしながら創るその音楽は、私の乾いた心を打たずにはおかない」との言葉を寄せている。
孤高を旨とし、私生活では日本の各地で障害児や難病の子供達との深い交流を続ける。
自作を聴く事が出来ない宿命を「作曲とは完全に他者の為の行為」と表し「苦しむ者への救い=光は、苦しみ=闇からこそ産まれる」という信念から、自身の音楽を“闇の音”と表現している。

1963年、被爆二世として広島に生まれる。

幼少よりピアノ、ヴァイオリン、尺八、マリンバなどの英才教育を受けて育ち、十歳の頃より作曲家を志すも、破綻的なまでの完璧主義とロマン派的クラシック音楽志向から、音楽大学には進まず、完全独学による作曲家の道を貫く。

高校時代より凄まじい偏頭痛を患うようになり、生活に支障をきたしながらも東京へと居を移して研鑽を重ねる。

ある経緯から一時ロック歌手としてデビューすることが決まるが、直前に弟・亨が交通事故に巻き込まれて死去。

その悲報を聞き頭に、身も心も引き裂くような不協和音が響いたという衝撃を契機に偏頭痛の発作が悪化し、遂には聴力にまで影響を及ぼし始める。

その頃より、不協和音を使った現代音楽的要素が作品に入る。耳の不自由な作曲家という話題性が作品の評価に影響することを嫌い、補聴器の使用を隠すため長髪にするなど、しばらくは聴力の低下を隠した困難な生活が続く中、映画「秋桜」、ゲーム「バイオハザード」等の音楽を手掛ける。しかしながら聴覚障害は悪化の一途を辿り、1988年、35歳の時、ゲーム「鬼武者」の音楽を執筆中、完全に聴力を失い全聾となった。

音楽家にとって致命的な障害を負うのみならず以降、慢性的な極度の耳鳴症に悩まされることになるも、絶対音感による記譜のみで作曲を続けることを決意。1999年に交響組曲ライジング・サンを完成する。邦楽器を取り入れた奏者200人の大編成オーケストラ曲は国内外に高く評価され、米TIME誌に現代のベートーヴェンの見出しと共に紹介される等、その存在が一躍注目を集める。その頃より、障害児施設に通い子供達との交流を持つようになった。しかし、その時期から更に激化した頭鳴症が心身を蝕み、血反吐と尿にまみれた生活を送るようになる。2003年、20年近くを費やした「交響曲第一番」を完成、2005年には「交響曲第二番」を完筆するが、その間、発作に起因する抑うつ神経症などが精神の破壊を招くようになり、二度に渡って自殺未遂を図るなど一時は廃人と形容すべき状態だった。

その後、精神障害の緩和治療を受けながら、発作を誘発する日光を避けて暗い部屋での隠遁者的な創作活動に邁進する。

2008年9月1日、完成後5年以上日の目を見なかった大曲[交響曲 第1番]が広島でのG8議長サミット記念コンサートにて遂に初演される。その模様が筑紫哲也のNEWS23において取り上げられたことを機に佐村河内の存在と楽曲は再度、衆目を集めることになった。

2008年11月、広島市民賞を受賞。著書に自伝[交響曲第一番](講談社)があり、作家の五木寛之氏が「もし、現代に天才と呼べる芸術家がいるとすれば、その一人は、まちがいなく佐村河内守さんだろう。命をすりへらしながら創るその音楽は、私の乾いた心を打たずにはおかない」との言葉を寄せている。

孤高を旨とし、私生活では日本の各地で障害児や難病の子供達との深い交流を続ける。

自作を聴く事が出来ない宿命を「作曲とは完全に他者の為の行為」と表し「苦しむ者への救い=光は、苦しみ=闇からこそ産まれる」という信念から、自身の音楽を“闇の音”と表現している。